2009年12月19日

3 華燭の宴で見たものは


(天理教本部のおじば中庭の教祖殿の前から神殿と西礼拝殿を望む)

 そのパーティーは、仕事上の付き合いが始まりで10年位前から私も参加を始めました。毎回数ヶ月がかりで企画されているもので、80名程のメンバーを中心にゲストもその都度数十名を招待して行っていました。会の発足から16年間定期開催が続いているそうで、毎年1回以上は開催されていましたが、近年は年間2回程度のペースで行われていて、会が終わるとすぐ又次回の準備を始めるという様な流れに成っていました。

 何時の間にか会の中枢を受け持つ役割に成っていた私は、10名掛けのテーブルを一台から多い時で二台受け持つ集客の役割も担って居ました。6月のパーティーも当然に事前のチケット販売を開始していて、何時もなら1ヶ月程前には仕事関連の取引先を中心に割り当て分のチケット販売を終えていたのですが、心の余裕が無かったその時は二週間前まで殆ど確定していませんでした。ノルマを下げてもらい、直前の一週前に親しい友人や家内の親戚に頼み込む形で、ようやく一台のテーブルを埋め会わせることが出来てほっとしたのも束の間、今度は当日のスピーチが苦になってどうしても暗い気持ちを払拭出来ないまま当日を迎えました。

 パーティー(晩餐会)は、鹿児島市内の某有名レストランで行われ、参加者約100名程度で各界のそれなりの立場の方々が参加します。ホスト役側の私は、直接の招待客の出迎えや以前お世話に成ったお客様へのご挨拶の為に、開催時間の約1時間前には家内と一緒に会場入りしました。この時も実は倦怠感に囚われた様な心身の異常を感じていましたが、自分なりに大切な役目が有るのだと思っていただけに、出来るだけ明るく振舞おうと自分に気合を入れなおして、親神様にもしっかりとお願いして出かけました。

 当日は午後6:30開宴でしたが、お客様の出迎えも役目に有ったので早めに出かけました。
自分で車を運転して会場に着いたのは午後5時30分頃で、既に主催者やスタッフも会場入りしていたので簡単に挨拶と打ち合わせを行い、チケット代金の清算と席割りの確認を行ってから会場の見回りを行い、お客様の出迎えを開始しました。
会場入り口で来場者の出迎えをしていると、だんだんと沢山の人が駆けつけてきました。何とか会釈とつくり笑顔で応対していましたが、仮面の下の素顔が見透かされているようで、どの人の視線もとても冷たく感じてしまいました。

 また、何時もは好意的に感じることが出来る数人のつくり笑顔の挨拶やほめ言葉等を聞いても、人間の心の裏に有る”うそ”と”ついしょう”に聞こえてしまって、場違いの違和感や居心地の悪さも感じました。私の中で潜在的に眠っていた、「お金儲けだけで繋がっている人の輪の中の世界には、万に一つの真実も見つけることが出来ないのではないだろうか?」というような諦めのような嫌悪感のような”感覚”を自覚したのもこの時かもしれません。

 今思うと、私のうつ病の根源はまさにこの事だったのかもしれません。もっとも、その事に気付く事が出来たのはそれから大分後のことで、今回”おじば”で気付かせて頂いた”陽気ぐらし”の意味が分った段階でようやくその事に気付いたのでした。
私の中に持っていた心の闇は、現実として生まれながらに有る身分やお金に対する不平等感や劣等感のような根源的なものから、自分を始め多くの人間に対する不信感と苛立ちと憎悪のような情緒的なものまで、実に多様なもので構成されていたのだと気が付きました。

 天理教の教えで、「おしい・ほしい・にくい・かわいい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」を八つのほこりとして上げています。
自然界ではほこりが自然と積もるように、人間の心の内には誰にでも日々起こりやすい感情であり、起こさないことに勤めるのも大事だが、毎日毎日かならづ掃除をしてほこりを払う事の方がもっとも大事な事だとしています。親神様はその事に気付かせる為に、身上・事情に障りをお付け下さるのです。そして私たちを魂の基からお救け下さるのです。
その事に気付いた人間に心の入れ替えを促し、人間が成人し続けて世界一列が陽気ぐらし出来る為のてびきとして、人救けのお道を親様の雛形を通して人間に御示し下されたのです。

 さて、そんな事とはまるで知らなかった当時の私は、何故か身の置き場の無い不安感を感じながら、予定していた招待客のテーブルセッティングも終わり、開会の時間が近付きました。
何時もならここで一通り軽く挨拶周りをするのですが、その日は全くそんな気分にも成れず、開会の時間までトイレに座って一人考え込んでいました。何を考えていたのだろう?。今思うと、何かを考えていたのではなくて、その時は只何時もの不安な思いに逡巡していたのだと思います。
そろそろ時間になったので、こんな事をしていては・・・と思い会場のテーブルに戻って席に着いた時にパーティーが始まりました。

 常連となった何時もの司会の女性のかん高い張りのある開会挨拶の声、主催者・主賓の挨拶から来賓の挨拶と続き、私の乾杯の音頭で宴会がスタートしました。でもこの時は既に私の中では、精神の苦悩と身体の苦痛の絶頂に達していました。
宴会が始まって、数年ぶりにお会いする懐かしい旧知の方々や半年振りの常連のお客様を始め、何時も会っている仲の良い仕事仲間のメンバーなので、本来なら各テーブルを回って酒を酌み交わし楽しく雑談を交える処ですが、その日はそんな余裕が全く無くそれどころか食事にも殆ど手がつきませんでした。
しかも、乾杯で飲んだ一杯のビールで悪酔い状態の様になっていて、気分がますます落ち込む一方でしたので、後はできるだけ他の人に不快感を与えないように大人しくしている事で精一杯でした。
本当はその場からすぐさま立ち去り、何処かの高層ビルの屋上か、荒れ狂う海に突き刺さるように切り立つ断崖絶壁の上にでも立ちたい気分でした。

 でもそれは出来ないししてはいけない。「私を支えて来てくれた家族の為にもここはしっかりしなければ。」という思いで、静かに時間が過ぎ行くのを待ちました。
そんな私の心を知ってか知らずか、一緒にパーティーに行った家内が招待客のお相手をつつがなくこなしてくれて、表向きは何事も無くその日の行事を終えることが出来ました。でもその日を境に、私のうつ病は一気に悪化を始めていて、いよいよその翌週には決定的な発病の瞬間を迎えたのでした。

そのお話は、また次回・・・。


”てびき”とは・・・

 【てびき】 親神からの知らせ。 ホーム教え天理教の教え より

 私たちは、日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに自分中心的な心づかいをしていますが、気がつかないで過ごしています。この心づかいは人間関係を悪化させ、世の中に混乱を招きます。そのままでは、この世は陽気ぐらしどころか陰気ぐらしになってしまいます。

人間の本来の姿は兄弟のように共に仲良く助け合って暮らすことですから、その姿に目覚めさせるために親神は「てびき」をくださいます。子供が危険な道を歩んでいるのをほっておく親はいません。「てびき」は時に病気やいろいろな問題となって表れますが、これはけっして親神が罰を与えて苦しめようとしているのではありません。あくまで子の幸せを思う親の暖かい導きなのです。

目前の苦悩や苦痛に嘆くのではなく、むしろ親神の心を悟り、この機会に自分本来の姿に目覚め、心も身体も陽気ぐらしのために使っていくことが大切です。「てびき」を通して親神が私たちの心づかいを正してくださるのです。「てびき」は私たちの心づかいにたいする親神の守護です。


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